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『弓ヶ浜温泉』温泉コラム 3

『弓ヶ浜温泉』温泉コラム 3

『弓ヶ浜温泉』 温泉コラム 3

私は今、「世界30カ国で裁判傍聴をした」という本を書いている。と話すと、こう聞かれる。
「どこが一番よかったですか」
まっとうな質問である。でも私はときおり、この質問に答えるのを、もったいないと思ってしまう。語り続けると、ふわふわしてやわらかかった自分だけの記憶が、確固とした言葉になってしまう気がする。

別府で暮らした一軒家は昔ながらの古民家で、風呂がなかった。
住み始めると案外ストレスはなく、それは、「入りたいときに風呂に入れない」わけではないからだった。徒歩10分圏内に25軒もの公衆温泉がひしめいていて、私たちは風呂に出かける日常に、すぐになじんだ。

別府には、「八十八湯めぐり」という企画がある。この企画に登録された200-300湯のうち88湯をめぐると「温泉名人」として認定される、というものである。
どのみち毎日外湯に行くのだからと、私もすぐに「温泉名人」を目指すことにした。するとそのうち、「どこが一番よかったですか?」と聞かれるようになった。
それに対して私は、なんだかもったいなくて、ずっとこれという答えを語れないでいた。

ある午後、私は横断歩道を渡って、町の真ん中にある別府公園へと歩いていた。

このあたりの横断歩道では、「山側」⇔「海側」を渡るときは『通りゃんせ』が流れ、「北」⇔「南」を渡るときは『故郷の空』が流れる。
普段なら意識もしないその単調な音楽を聞いて、私は急に、「日常という、大きな顔をして身体の一部分を占めているように振舞っているもの」に対して、感傷的な気持ちを抱いた。「もう別府を発つのだ」とそのとき気が付いた。

日常はあちこちに散らばっている。

それは駅裏の商店街の魚屋にあった。

それは散歩する別府公園のカフェにもあり、悪友を迎える北浜の飲み屋街にもあった。
日常は、線路を越えて歩いていく温泉にもあった。

『弓ヶ浜温泉』にはじめて行ったのは、夕立にザッと降られた夏の午後だった。風呂に浸かるうちに雨は上がり、窓の外からカーっと夏の日差しがさしこんで、土色の浴槽は午後4時に、真昼のように明るくなった。
お湯は熱かった。泉温54.9度とあった。洗い場でそれはそれは大きな虻に刺された。一緒に入っていたおばさんはムヒを貸してくれた。

「ここはな、しばらく閉じられてて、最近再開されたんよ。だから私らも前までは、線路を越えて向こうの温泉に行ってたんよ」
季節がめぐり、4度目に行ったとき、おばあちゃんが髪を流しながら昔話をしてくれた。再開後の今となっては、ここではPayPay支払いもできる。
「あんたは線路の向こうから来たんやろ? よくあったまっていき~」
線路といってもすぐ近くだ。それでも私は、線路の高架下という境界を通ってここに来るのが好きだった。

別府に来てから、風呂に入るということがやっつけ仕事じゃなくなった。
風呂に入るためには、お風呂セットを持って家の外に出ないといけない。線路を越え、小銭を払い、人にあいさつをする。しかるべき手順を踏んで風呂に入り、上がり、ときに雑談をし、雑談を聞き、そしてまた歩いて家に帰らなければならない。ドライヤーはその後だ。
風呂に入るのはもう「シャワーで済ませる」ことじゃなくなって、そこにはひとまとまりの時間と手順と儀式が必要になった。そしてその手順はひとつひとつ、私の身体の内にしみ込んでいった。

ここに3カ月暮らして、行きつけの魚屋と行きつけの仕事場と行きつけの飲み屋ができた。行きつけの温泉ができた。友達ができて、「日常」ができた。

「夕空晴れて 秋風吹き / 月影落ちて 鈴虫鳴く」
温泉帰り、横断歩道から流れる曲に、胸がきゅっと音を立てる。いつだって濃い思い出は、日常と非日常のキワに棲み付いていて、それは語らないとふわふわとどこかに飛んで行ってしまうから、私はそれを語ることにする。
こんなに近いのに境界の向こうにあった『弓ヶ浜温泉』を、「どこが一番よかったですか」のひとつの答えとして、語ることにする。

文:原口 侑子
写真:©︎ 85mm Closer




別府で暮らし始めた経緯 

今年の春に帰国したら、Covid-19の影響でしばらく日本に滞在することになった。
「じゃあ、国内で行ってみたかったところに行って、暮らしてみよう」ということになった。
パートナーは温泉地で暮らしたいと言った。私は九州に来たかった。第一候補として別府が浮上し、夏にお試しで3週間暮らした。

夏の日差しがゆるむ夕暮れに、毎日海辺を歩いた。
素敵な一軒家を借り、青魚と日本酒、鶏刺しと焼酎に舌鼓を打った。飲食店には「STOPコロナ差別」という張り紙を見た。
毎日100円や200円で温泉に入れるという生活そのものが、極上のごちそうのようであった。

別府の美味しさと懐の深さと、その暮らしやすさの源泉を、もっと知りたくなって、秋から3ヵ月の期間限定で、再び別府に住まわせてもらっている。

著者紹介 

原口侑子(はらぐちゆうこ)ライター・弁護士
東京都生まれ。世界各国への旅(124カ国)、開発コンサルタント(アジア・アフリカの制度調査)などを経て、30カ国の裁判所を巡った『世界の裁判を旅する(仮)』(コトニ社)を2021年刊行予定。

その他ウェブメディア掲載記事:
https://jbpress.ismedia.jp/search/author/%E5%8E%9F%E5%8F%A3%20%E4%BE%91%E5%AD%90(紀行エッセイ)
https://www.call4.jp/story/(社会記事/訴訟ストーリー)

※この記事は2021年1月時点の情報をもとに作成しております。営業時間やサービス内容が変わっている可能性がございますので予めご了承ください。

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